街路を歩きながら、ふと思った。
自分は決して全知にも全能にもなれないと悟ったのは、一体いつのことであったか。
この世界には、必死に努力をすれば手が届くものよりも、たとえ一生を捧げようと届かないものの方がずっと多い。そして、人が嫉妬するのはいつも「自分でも手が届きそうに思えるもの」である。天賦の才を目の当たりにしたとき、嫉妬よりも畏敬の念が勝るということは少なくない。
しかし厄介なことに、両者を明確に隔てる境界線の存在は未だにどこの学会からも発表されていない。だから不毛な嫉妬に狂って非行に走る者が後を絶たないのだ。おそらくNASAが隠蔽しているのであろう。最新鋭の科学技術にかかればその程度のものが見つからないはずがない。
だが、もしも本当に発見されていないだけなのだとすれば、現代の技術者連中は羽根のない扇風機や喋る炊飯器などをつくって喜んでいる場合ではない。自分たちが人類史の最前線を生きる最先端の人間であることを自覚し、もっと人類の発展のために努めるべきである。そもそも扇風機の羽根がなくなったところで何の意味があるというのか。そんなものよりも人々の心から嫉妬心を取り払うことこそが人類の明るい未来のために必要ではないのか。
全知全能などは到底不可能な願いであると知ってもなお、ほんの少しでもできることを増やそうと、私はがむしゃらに自己研鑽を続けた。けれども、その努力が実を結ぶことはほとんどなかった。自分の能力が伸び悩むや持ち前の飽き性を発揮し、すぐさま次の目標を見つけては、それまでの努力を放り投げる有様である。
そうして絵に描いたような三日坊主を繰り返すうち、気がつけば私の周りには「できること」ではなく「できそうなこと」ばかりが増えていた。私が手塚治虫もかくやという尋常でない嫉妬深さを誇るのも、それが原因であろうと思われる。
私は自分にできないことができる人間を羨み、自分の知らないことを知っている人間を妬む。そして、何かを自分よりも楽しんでいる人間を見ると、ものすごく悔しくなるのである。悔しさのあまり、教えを乞うことも、面白さを共有することも素直にできない。そのまま近くにいれば、自分の愛が霞んでしまう気さえする。
思えば、私は最初から全知全能に憧れていた。何かひとつを極め、知り尽くすことではなく、すべてを望み、知りたがった。それが間違いだったのかもしれない。私におよそ趣味と呼べるものがひとつもないのも、あるいはそのせいか。自分には何ができて、何が好きなのか、私にはわからない。
何かを好きになるということは、要するに選択なのである。この世はすべて相対評価であり、好きなものがあれば必ず「そうでないもの」が出てくるのだ。後腐れのない選択などあり得ない。何かひとつを選び取り、「もっと自分に合ったものがあるかも」なんて内なる声に心を締め付けられ、それでも未練たらたらで歩き続ける覚悟が私にはなかった。
だから、その選択をしたすべての人間が私には羨ましい。
この先どこへ行けど、何をすれど、そこには私よりも楽しんでいる人間が腐るほどいることであろう。そのたびに嫉妬で心に傷がつくことを思えば、初めから何かひとつを選んでしまった方がよほど楽だったように思われた。だが、今更そんなことを思ったところで遅いのだ。ここまで来てしまったからには、死ぬまでこの道を進み続けるしかない。
しかし、まあ、これもひとつの選択と思えば、そう悪くはないのではないか。
後に引けなくなった私は、そんな言葉で自分を慰めることにした。