忘京

 すべてフィクションです。

初恋のなごりはやがて死に至る。

「今、生きていて、楽しいですか?」

 12歳の私から届いた手紙は、そんな一文で始まっていた。
 まさか六年前の自分自身に図星をさされるとは思いもよらず、私は面食らってしまった。将来の自分へ向けた手紙にこんなことを書くとは、当時の私はかなりこじらせていたらしい。いつか生きるのが楽しくなくなるなんて考えもしなかったんだろうなと苦笑した。二年後にはきみも立派な引きこもりだよと伝えたら、当時の私はいったいどんな顔をするだろう。

「小説は、まだ書いていますか?」
 手紙を読み進めていくと、今度はそんな一文が目にとまった。
 過去の自分というのは、こうも容赦なく痛いところを突いてくるものか。私は感心してため息をつき、手紙を床に放り捨てた。まるで未来が見えているみたいだ。
 私が「将来は作家になりたい」と思いはじめたのは、ちょうどこのころだったと思う。
 きっかけなんて、とうに忘れてしまった。ただ、気づいたときには、文章を書くという行為が私という人間の核心に入り込んでいた。書かなければもう二度と私は私でいられないような気さえした。そして、私はそれを特別なことだと思っていた。
 この手紙を書いた私は、いままでまともに本を読んだことすらないくせに、自分が特別になったような気になって、ごくありふれた夢を恥ずかしげもなく語っている。けれど、それを笑ういまの私が本当はあのころからなにひとつ変わってないことも、心の底ではわかっている。自分が特別でないと気づくことすら特別ではないのだと、私は最近になって気がついた。私は生まれたときから、いまでもずっと、ごくありふれた人間のひとりでしかない。
 それでも私は、いまも夢を捨てられずにいる。作家になりたいという夢は私の心に深く根を張ってしまって、いまさら取り除くことなんてできそうもないから。

 そういえば――と思って、手紙が入っていた箱をあさってみた。側面にでかでかと私の名前が書かれた白い段ボール箱には、小学校時代の思い出の品が詰まっている。中身をひっくり返して探すと、それはすぐに見つかった。
 原稿用紙をスティックのりで貼り合わせて作った分厚い冊子。
 中には色とりどりの付箋がべたべた貼られていて、薄緑色の厚紙でつけた表紙には、創英角ポップの書体で「週末作文集」と書かれている。私が小学五年生のころ、毎週末の宿題で書かされた作文だった。
 中を見て笑ってしまった。ぶさいくな字で原稿用紙いっぱいに書き連ねられた文章は、小学生だからとひいきめに見ても上手とは言いがたい。思わず、「へたくそ」と声に出た。付箋に書かれた同級生の感想にも、文章への言及は一切ない。どうしてこれで作家を志す気になったのか、自分でも不思議に思う。
 それでも、幼い自分の文章はどこか新鮮な感じがして面白くもあった。ところどころに笑いながら、私はどんどんページをめくっていった。
 そして、私はそれを見つけた。

「季節の表現がすごくうまい。君が書いたとは思えない!」

 水色の付箋にめいっぱい書かれた闊達な文字。
 名前がなくてもすぐにわかった。
 間違いない。これを書いたのは、私の初恋の相手だ。
 そうだ、と思った。私が作家になりたいと思うようになったのはこのときからだ。密かに想いをよせていた彼女にほめられたのがうれしくて、以来、私は文章を書くのが好きになったのだ。
 我ながら単純だなあ――そう思いながらも、私の胸はひどく高鳴っていた。これだけの時間を経てもまだ、私のうちにはあの初恋が溶け残っていたらしい。
 恋にも賞味期限があれば楽なのに、と思う。
 そもそも恋愛というのは、ほぼ確実に失敗するようになっているのだ。
 なぜなら、恋愛にはゴールがないから。付き合えたから終わりというわけじゃない。恋人と別れるのだって、フラれるのと同等以上につらいはずだ。恋が叶うとするならば、そのときは死ぬまで訪れないと思う。恋人になって、夫婦になって、そこから一生添い遂げて、それでようやく終わる。
 だから、もしもあのとき告白に成功していても、必ずどこかで破綻していたはずなのだ。
 そんなものをいつまでも引きずっていても、ただ自分が苦しくなるだけなのに。

 そして私はふと思った。
 作家になるという夢も、本質はそれと一緒なのではないか。
 どこからが作家か、という疑問は本当に根が深い。作家を名乗るだけなら誰だってできる。本を出したければ自費出版でもすればいい。
 それなら、私がなりたかった「作家」とは何か。
 あのころの私が認めてくれるような出版社から運良く本が出せたとしても、一冊書いて終わりでは満足するはずがない。一生死ぬまで書き続けて、それでようやく、私は作家になれる。私の夢が叶うとすれば、そのときは死ぬまで訪れない。
 しかし、叶わなかった初恋を引きずり続ける私だ。夢だって叶わなければ死ぬまで引きずるだろう。恋にも、夢にも、賞味期限なんてないから。
 どうせ引きずるなら、と思った。
 書いても書かなくても、死ぬまで夢は叶わないのだ。それなら私は、最後の最後で報われることに懸けてみたい。

 私は付箋をもう何度か読み返してから、冊子を閉じた。それを段ボールの底の方へしまい込み、それから「ふふっ」と笑った。
 この夢も彼女からもらったものかと思うと、私はなんだかおかしかった。
 初恋というのは、どうにも後を引くらしい。