忘京

 すべてフィクションです。

私だけが裸の夢を見た。

 最悪だった。猛暑日だというのに、よりにもよって冷凍庫の扉を閉め忘れたまま寝てしまった。
 当然のごとく、中身は全部だめになっていた。冷蔵庫の方もほとんど空っぽで、おまけにカップ麺まで切らしていた。いつもはこんなことないのに、最近は忙しかったから気が抜けていたのかもしれない。急いでネット通販で注文したけど、お届け予定日は明後日になっていた。
 ぬるい水道水で空腹をごまかしながら、汗だくになって霜取りをしているうちに、いつの間にか外が薄暗くなっていることに気がついた。もう少しすれば夜になる。そしたら、近所のコンビニまで買い出しに行くくらいのことは私にもできるかもしれない。少なくとも、明後日まで水道水だけで凌ぐよりは幾分か現実的に思えた。

 大して涼しくもない夜だった。こんな日に厚着をするのはそれこそ目立ってしまうような気がして、薄手のカーディガンを羽織って私は家を出た。世間では大騒ぎになっている例の感染症だが、おかげでマスクをしても怪しく見えないのはありがたかった。
 久しぶりに外を歩いていると、ぼんやりと昔のことを思い出した。
 小さい頃にも一度、家の外に出られなくなった時期があった。あの頃はまだ顔にも身体にもコンプレックスなんてなかったのに。
 当時の私は、軽いゲシュタルト崩壊を起こして、服を自分の一部として認識できなくなってしまっていた。「服の下は常に裸」という当たり前のことが、どうにも恥ずかしくて耐えられなかった。
 服って何なんだろう、と思う。アダムとイヴの話を信じるのなら、服というのは裸を隠すためのものらしい。そして隠すという行為は、観測者がいて初めて成り立つものだ。見えるものを見えないようにするから「隠す」と言えるのであって、はじめから誰にも見えないものを隠すことなんてできない。
 じゃあ誰から裸を隠すのかと言えば、それは「他者」でしかないのだと思う。あんな隙だらけのスカートだって服として認められているわけだし、他の人から見えないようにできれば、服としての仕事を果たしてることになるんだろう。
 だけど、他者から隠すことはできても、自分から隠すことは決してできない。私はずっと、それが嫌だった。裸の自分を感じながら生きるのがつらかった。他人からも見られているんじゃないかと不安だった。いくら服を着たところで、その下には、常に裸の私がいた。
 ふと、視界の隅で公園の街灯がちらついた。
 なんだか幽霊でも出そうな気がする。これだから夜の街というのは怖い。急いで通り抜けようとも思ったけど、一切目を向けないというのもそれはそれで怖いような気がして、私は恐る恐る横目で公園の方を見る。どうせ誰もいないと思ったのに、ちらつく街灯の薄明かりの下には人影があった。
 私は目を奪われた。
 それは、すらっとした肢体の美しい女性だった。幽霊なんかじゃないと一目でわかるほど、彼女は圧倒的な存在感を放っていた。しかも彼女は全裸で、そのうえ身体中には手術痕のような痛々しい傷痕がいくつも残っていた。だというのに、彼女はまるで意に介さぬように、堂々とそこに立ち尽くしている。毅然とした目つきで空を見上げ、遙か遠くの見えない星々を睨めつけている。
 私は足を止め、そのまま彼女の横顔を長いこと眺めていた。「どうして裸なのだろう」という当然の疑問が浮かぶまでにずいぶんかかった。それでも彼女から目を離せなかった。
 不意に、彼女は空を見上げるのをやめた。何気なく周りを見廻した彼女は、そこでようやく私の存在に気がついたようだった。目が合うと、彼女は驚いたように固まった。
 私も、少し驚いた。
 彼女の顔には、左側の口角から大きく裂けたような傷痕があった。