忘京

 すべてフィクションです。

おこがましいとは思うけれども。

 世界の全部は相対的で、絶対的な指標なんてものは、おそらくどこにも存在しない。本物だとか偽物だとか、結局のところ、そんなのは言葉の上のものでしかなくて、我々がやっているのは「こっちの方が本物っぽい」という相対評価に過ぎないのである。
 何も、良い悪いの話ではない。
 私は世間で「本物」とされているものにケチをつけたいわけではないし、否定したいわけでもない。この世界に生きている以上、この世界自体をメタな視点で絶対的に俯瞰することは我々にはできない。となれば、他の何よりも「本物っぽい」ものを「本物」とするのは、考えてみれば当たり前のことだから。

 さて(実のところ、私はこの「さて」という入りがあまり好きではない)。
 否定神学、というものをご存じだろうか。
 簡単に説明してしまうと、神とは人間の認知を完全に超越したものであり、「神とは〜〜である」と定義づけることは不可能であるとして、「神とは〜〜ではない」という形で定義づけようとする神学である(実際には「〜〜ではなく、〜〜でもなく、」という否定が無限に連なり、定義は永遠に完了しないわけだけれども)。モチーフ自体を塗り残すように周りを塗ることによって輪郭を描き出すネガティヴ・ペインティングのような、「以外」を列挙することによって神の輪郭を知ろうとする途方もなさが面白い。
 まあ、身も蓋もない言い方をすれば「消去法」である。シャーロック・ホームズも言っていたようなアレ。

 ともかく、世の中に絶対的な指標がないことを思ったとき、私はこの否定神学の話を思い出した。
 これは何も神に限った話ではないのではないか。たとえば、私という人間を知るにもきっと、この否定神学的な考え方が必要なのではないか。私はそう考えた。
 私には、私というものがわからない。私は私である、と胸を張って生きていくことが私にはできない。しかし、肯定的に定義しようとするのではなく、否定的なアプローチであれば、私というものを知ることができるのではないか。私以外のすべて、とは言わないけれども、私ではないものを知れば知るほど、私というものの輪郭が見えてくるかもしれない。

 ここまで考えて、ひとつ思い至ったことがある。
 もしかすると、「自分探し」というのはそういうことなのだろうか。
 誤解を恐れずに言えば、私はいわゆる「自分探しの旅」という行為を、いささか冷めた目で見ていた。旅先に都合よく「自分」が転がっているはずがないだろうと、どこか小馬鹿にしている部分があった。しかしそれは、そもそもの前提からして違っていたのかもしれない。
 いくら旅をしたところで、「本物の自分」が見つかることは永遠にないだろう。けれども、「本物っぽい自分」の輪郭は、そのうち見えてくるかもしれない。
 それは当てもなく自分を探す旅ではなくて、きっと、「自分以外」をたくさん見つけるための旅なのだ。

 肯定的な定義ができず、否定を無限に書き連ね、ぼんやりと輪郭を描き出すことしかできない。
 そういう意味では、私も、神も、変わらない。