忘京

 すべてフィクションです。

無題(本)

 私は昔から本を読むのが好きだった。物心ついた頃にはすでに人よりも本との触れ合いを好み、やがて「人見知り」という不治の病を発症した。以来、私に友人と呼べる存在ができたためしはない。その現実から逃れるために私はさらに本の世界へのめり込み、まったく不本意ながらに博覧強記の境地に至った。
 そして私は、学校帰りにふらりと立ち寄った古本屋で運命的な邂逅を果たしたのである。
 生涯に「これは自分の本だ」と思える本に出会える確率は、ドッペルゲンガーと出くわす確率に等しい。だが、そのような天文学的数字をすり抜け、私はそれを手に取った。
 何の気なしにぱらぱらとページを捲り、私は驚いた。そこに書かれていたのは、紛れもなく私のことであったから。
 この本を読み進めた先に、私の幸せな将来も見つかるかもしれないと思われた。しかし、そのとき財布の中にあったのはなけなしの硬貨ばかりで、私はやむなく一度帰宅した。そして今日、私が二人の野口英世を引き連れて再び古本屋を訪れたとき、その本はすでに姿を消していたのであった。
 私は思う。これは立派な窃盗である。なぜならあれは私のために書かれた本なのだから。
 私は激しく憤った。憤りの激しすぎるあまりに周りの客を誰彼かまわず睥睨し、そのうちの一人に睨み返され、意気消沈して俯いた。
 俯いたまま私は密かに決意した。私以外の誰かがあの本を購入したというのなら、必ずや犯人を見つけ出し、奪い返さねばならない。
 しかし、いったいどうしたものか。店員に聞いたところで教えてはくれないだろう。そもそも人見知りの私にそんなことは不可能だ。
 散々と悩み抜いた末、まずはこの店に来る客を観察してみることにした。犯人は現場に戻るという言葉もある。あの本を盗んだ犯人もこの店へ戻ってくるかもしれない。
 私は本棚から適当な本を取り、立ち読みするふりをしながら周りの客を横目に眺めた。飽きもせず、二時間あまりはそうしていた。飽きなかった理由の半分くらいは、手に取った本が予想外の展開を見せたからである。
 二時間の観察から、私はあることに気がついた。この店に来る客はほとんどが学生のようなのだ。この古本屋の近くには私の通う学校がある。思えば私があの本に出会ったのも学校帰りのことだ。ということは、犯人もまた、私と同じ学校に通う学生なのではないか。
 私はその可能性を信じることにした。先ほど読み終えた本を購入し、私は帰路についた。
 それからは何の成果もなく一週間が過ぎた。
 考えてみれば当然だった。私と同じ学校に通っているかもしれないという以外、犯人については何の情報もないのだ。
 しかし、読んでから一週間も経てば「大した本ではなかったのではないか」という気もしてくる。私はほとんど諦めたような心持ちで、いつものように一人で学生食堂を訪れた。
 そして、そこで私はあの本を見つけた。
 私の本が、食堂のテーブルの上に忘れ去られたように放置されていた。
 この再会は運命だ、と私は思った。人の目を気にも留めず、その本を抱きしめて頬擦りをした。感動のあまり涙まで流した。また盗まれないように持ち帰ろうと自分の鞄へ突っ込もうとして、私ははたと気がついた。
 これを持ち帰ってしまったら、盗人は私の方なのではないか。これは私のための本だが、金を払って購入したのは私ではない。いかなる大義名分があろうと犯罪者は私の方である。
 その葛藤は、しかし背後からかけられた声によって打ち切られた。低くてこもった、男性の声だった。驚いて振り返ると、男性は私の手元を指さして「それ」と言った。「俺の」
「どうぞ」
 私はほとんど条件反射で本を手渡し、「それじゃ」と曖昧な言葉を残して彼に背を向けた。長年かけて培った、人見知りなりの処世術だった。だが、あろうことか彼は、そんな私に声をかけたのである。
「ちょっと」
 人見知りの私にとって、人を無視することは人と話すことの次に難しい。私は足を止めて振り返り、無言で首をかしげた。
「これ」と彼は言った。「忘れてる」
 彼が差し出したのは、一週間前に私があの古本屋で購入した本であった。
「ありがとう」
 本を受け取り、再び立ち去ろうとする私に、彼はまた声をかけてきた。
「それ」「面白いよね」「本は好き?」
 ぼそぼそとした途切れがちな話し方だった。
 私はふと思った。あの本は、もしかすると彼のための本でもあったのかもしれない。
「うん」「あの」「私」「その本」「探してた」
 思い切って言ってみると、彼は曖昧に笑った。笑ったように見えた。
「読みたい?」と彼は言った。
 私は、小さくうなずいた。