みんなちがって、みんないい。
金子みすゞは言うけれど、そもそも私はその“みんな”の外にいるのではないか、という感覚が拭いきれない。
「えびばでぃ」も「れでぃーすあんどじぇんとるめん」も「ぼーいずあんどがーるず」も、私に向けては言っていないように聞こえる。
みんな*は前を、外を向いていて、なんだかちゃんと「生きている」って感じがする。生き延びるための算段がついていたり、ごまかし方を弁えていたりして、案外いろいろのことに向き合っている。そういうように見える。
他方、私はずっと過去にいる。過去を清算しないと今を生きていけないような気がして、ただ自分の足跡を眺めながら後ろ歩きしている。内向的な自己言及に終始している。時折、今のことやこれからのことが不安になったりもするけれど、するとなおさら、過去と向き合わないといけないような気がしてくる。たぶん、ただの現実逃避。
そんな風だから、私は昔からどこへいってもなじめなかった。
私は空っぽだな、とつくづく思う。
趣味:なし。特技:なし。才能も教養もまるでない。特筆すべき事柄は、とりたてて特筆すべき事柄がないことだ。幸せな人はうらやましいけれど、不幸な人だって、私にはうらやましい。
終わったあとに何の感慨も残らない人生なんて嫌だし、いっそ死んでしまいたくもなるけれど、死ねない理由もないまま死ねるはずもない。後悔のない死は美徳とされるけれど、それは山や谷を越えた先にある安寧のことであって、何の起伏もないまま訪れる死のことでは絶対にない。何の未練もなく、死にたくないとも思えないままでは、私は死にたくない。
人生は例外なく分相応、と誰かが言っていた。
空っぽなら空っぽなりの人生があるはずで、何も考えずに生きていければよかったんだと思う。あの出会いがなければ……と、また内向的に回想に浸ってみたりする。
もうずいぶん前のことになるけれど、私は中学校の途中まで、ずっと海外で育った。あの頃の同級生はみんな優秀だったみたいで、聞いた限りだと、過半数の進学先が旧帝大とか早慶とか。大学でばったり再会してもはや同窓会の様相だとか、そんな聞きたくない話ばかり耳に届く。
私は頭の出来も良くないし、やっぱり分不相応な環境だったんだろうけど、当時の私は大して気にしていなかった。なのに、あるときやってきた転校生によって、私の人生は大きく変わってしまった。
その子はちょっと内気で、クラスでもちょっと浮いていた。そこでは転校生も大して珍しい存在ではなかったから、物珍しさで質問攻めにあったりして、そのまま意気投合——みたいなパターンもなかった。
話しかけたきっかけは憶えてない。たぶん、家が近かったから、以上の理由はなかったと思う。
その子のほうがどう思っていたかはわからないけれど、私自身はそこそこ仲良くしていたと思っているし、ちょっぴり尊敬していた。生え抜きの日本人という感じで、私の知らない世界のことをたくさん教えてくれて、とても頭が良かった。その子にとっての当たり前の話が私にはすべて新鮮で、なんだかうらやましくて、どうして私の人生はそんな風じゃないんだろうと、その頃から疑問を抱くようになった。考えなくてもいいことの考え方を教わってしまったんだと思う。
あの頃の環境は、間違いなく分不相応だった。みにくいアヒルの子を思い出したけど、あれとはちょっと話が違う。どちらかといえば犬と一緒に育てられた猫、みたいな話。猫には猫なりの生き方があるのに、犬と同じになろうとするのだ。一度憧れてしまったら、もう知る前に戻ることなんてできない。私はこれから一生分不相応な人生に憧れて、分相応な生き方すらまともにできないんだろう。
回想ついでに両親のことも思い出す。
二十歳のころに単身日本へやってきて、日本の大学を卒業し、そのまま帰化したという父は、当然、青春を日本で送ってはいない。日本に来たのもネットでよく聞く「マンガやアニメが好きで」みたいな理由ではないし、今でもそういう趣味はない。
放任気味だった母は、人並みに漫画も小説も映画も嗜んでいたらしいけれど、コレクションはすべて私が生まれるときに捨ててしまったらしい。家で本を読んだり映画を観たりする姿を、私が目にしたことは一度もない。
だから、昔から家に本棚はなかった。
さらに加えるなら、海外で日本の作品を手に入れるのは(少なくとも小学生だった私には)容易ではなかった。それどころか、出先での偶然の出会い、なんていうのもまったくない。そもそも「危ないから」と言って、住んでいたマンションの敷地から出たこと自体、保護者同伴でもほとんどなかったから。
家に本がたくさんあって、とか。
親が好きだったから自然に、とか。
そういう風に趣味が形成される人が、私は心底うらやましかった。
私には何もない。親が何を好んでいたのか知らず、私自身が何を好むのかもわからない。
最近になって少しずつ、何にでも興味を持とうとするようにはなった。興味を持っているような素振りは見せるようになった。けれども、心の根底のところには常にどこか冷めた自分がいて、すべて忘れて熱中できることなんて本当は何ひとつないのだ。
好きなことを聞かれても答えられない。何をしても心は休まらない。私には人間として最も大事な何かが欠けているような気がして、その何かこそが、“みんな”たり得るに必要な資質なのではないかとも思う。
「私も同じだよ」なんて簡単に口にして、理解者面して寄ってくる人間は信用ならない。
もちろん“みんな”から外れた人は、私以外に大勢いると思う。当たり前だけど。
でも、“みんな”は括れるかもしれないけれど、“みんな以外”は括れない。“みんな”の外にいる限り、めいめいに確たる自分としてのアイデンティティがなければ生きられない。群ではいられず、個の素養が必要になるのだ。私にはそれが決定的に足りていない。足りていないくせに学校にも通えず、ひたすらに個としての道を邁進している。
なんだか今日は思考が散らかってまとまらない。文章もめちゃくちゃで、脱線しているというよりも、そもそも本筋が決まっていないという感じだ。
ここまでぐちゃぐちゃ書いて、結局何を言いたいかといえば、私は何を言いたいわけでもない。
ただ、私は私として、私なりに、そんなことを考えながらここに生きている。