もしもこの世界が誰かの創作なのだとしたら、それはちょっと無理があるでしょうといいたくなるようなことは山ほどあります。
天は思うより簡単に二物も三物も与えますし、奇跡は幾度となく起きているから信じられているのです。きっと神さまというのは、ずいぶんなご都合主義者なのでしょう。神さまを信じる方々は、この現実に蔓延るご都合主義に対して、きちんと批判的な目を向けているのでしょうか。
いえ、おそらくそんなことはしないでしょう。なぜなら、この世界に生きる我々にとって、この世界は紛れもない現実であるからです。そして現実であるからには、この世界を誰がどのような意図でつくったかなんて我々には何の関係もないからです。たとえ無理があるような出来事も、すでに終わったことなのであれば「そんなのはあり得ない」などといっても何の意味もないのです。「在り得ない」ものでも、「在る」のです。
これは、創作には決して超えられない「現実」の話です。
有名な例を出せば、棋士・藤井聡太くんの活躍は記憶に新しいですね。現実がフィクションを超えた、と世の人は異口同音にいいます。彼のいない世界で彼の話を語ろうものなら、リアリティがないと一蹴されることでしょう。
これが創作であれば、こんなご都合主義まみれの作品は楽しめないという人も多いことと思います。しかしこれは現実の出来事であるから、彼がいくら現実離れした活躍を見せようとも、誰かしらの作為がノイズになることなく、素直に応援したり楽しんだりすることができる。
つまり、現実はどれだけリアリティがなかろうと現実であり、創作はどれだけリアリティがあろうと創作でしかあり得ないわけです。
現実というのは、いつも創作の邪魔をします。
先に挙げた例についてもそうです。創作が現実でないのは、この現実と比べて「相対的に現実ではない」としているに過ぎません。この現実さえ存在しなければ、創作は現実と変わりないのです。夢は、醒めてしまえば夢ですが、見ているうちは現実です。
創作が現実を超えられないから問題なのではなく、そもそも創作のほかに「現実」などというものが存在しているからいけないのです。
どうしようもないことだけど、どうしようもないからといって、考える必要がないと割り切るのは難しい。
少し話を変えます。
作者が作品の邪魔をする、というのもよく聞く話ではないでしょうか。これも現実が創作の邪魔をする事例の一種ですね。よくあるのは「作者の人格を好きになれないから」という話ですが、何もそうした「性格の悪さ」みたいなものに起因するとは限りません。
LGBTという言葉が嫌いだ──という一文があったとします。これを書いた作者本人が性的マイノリティの当事者であるか否かで読者の反応は大きく変わるのではないか、と私は思うのです。
当然のこと、ではあるのでしょう。異性愛者・性的マジョリティの人間がそんなことを書けば、何をわかったようなことを言っているのだと反発が起こるのも理解はできます。また、そうした反発を起こすのが当事者に限らないことも想像がつきます。
一方で、もしも先の文を当事者が書いたとすればどうでしょう。こういうふうに思う人もいるんだな、と、そのリアリティをもって感銘を受ける方すらいるのではないでしょうか。
何かしらの創作に触れる際、作者の性別や学歴が気になった経験はありませんか。確認してみて「やっぱり男/女か」などと口ではいいつつ、少し安堵を覚えたことはないですか。あるいは予想が外れていたとき、なんだか作品から少しばかり説得力が失われたように思えたりはしませんか。
現実ではできないことができるから、というようなある種の現実逃避的動機で創作を始めた人間にとって、創作の世界においても結局は現実から逃れられないというのは、ものすごく悲しい事実です。私もそちら側の人間なので、なんだか絶望的な心持ちです。
作品に触れるときくらい現実のことは忘れるべきだ、と思ったりもします。
しかし私自身、そうしたしがらみに囚われることは少なくない。眩しい経歴の持ち主に引きこもりの心情を見事に描かれてしまうと、共感するのがなんだか悔しかったりします。
だから、私は、無でいたい。
私の作品に触れる誰しもに、私のことなど知らずにいてほしい。それで私の意図せぬ読み取り方をされようが構いません。作者の存在が死ぬことで、作品から「正解」という幻想が消えてくれるなら。そうして誰がどのような意図で描いたのかもわからなくなったとき、作品は本当の意味で完成するのではないでしょうか。
そもそも正解がなければ、結果論をする人もいなくなるはず。
実現しないとはわかっていても、そうなればいいなと、私は考えてしまうのです。