差別と区別、という言葉が嫌いだ。
そんなのは本質的に一緒だと私は思う。
ためしに検索をかけてみる。キーワードは「差別と区別」。Google先生はこんなくだらない疑問にもとりあえずの回答を返してくれるから優しい。最近はちょっとぽんこつだけれど、そんなところもご愛嬌。
検索結果の画面には、「差別」と「区別」は違う意味、差別と区別の違いを完全解説、などというページがぞろぞろと並ぶ。一応いくつか覗いてみると、どこも概ね同じようなことが書いてある。
つまるところ、区別とは単に違うものを分けることであり、差別は分けたそれぞれの扱いに差をつけることであるらしい。
お説ごもっとも。
たしかに手元の辞書をひらいて確認すると、それと似たような説明がなされている。おそらく世間ではそのように使い分けられているのだろう。けれども、そもそも違うものそれぞれの扱いに差をつけないことなんてできるのだろうか。そんなことは不可能だ、と私は思う。
人間と動物、あるいは大人と子供とをまったく同じように扱えるか。特定の誰かと関係を築くというのは、根本的に、その他大勢と扱いに差をつける行為にほかならない。受験や就職というのも結局は経歴や能力によって選別し、選ばれる人間と選ばれない人間を生む。区別をしたならば、そこには必ず差別が生まれる。区別というのは差別の一段階に過ぎないのではないか。
差別ではなく区別だ——といういいかたをよく耳にする。
いっている本人は、たぶん心の底からそう信じているのだと思うけど、そんなのは欺瞞だ。私にいわせればどちらも差別だ。そこにあるのは「差別」と「区別」ではなく、「許されない差別」と「許される差別」でしかない。彼らは「差別」と「区別」を差別している。どちらも本質は一緒なくせに、聞こえのよい言葉に換えて安心している。
最近はなんだか妙に言葉に敏感な人が多いな、という肌感覚がある。
あまり深くは触れないけれども、「AI絵師」だとか「座り込み」だとか。ああいうのを見ていると、言い換えれば満足するのかなと不思議に思う。もちろん言葉選びは大切だけど、ああやって大勢で群れなして詰め寄るほどのことなのか。表層的な部分に囚われて本質を見失い、それで何かを成し遂げたような気になるのは浅はかだ。書いていて自分で耳が痛い。
自分で絵を描いていないのに「絵師」を名乗るのはおかしい。ごく短い時間しか実行していないのは「座り込み」ではない。言葉に対してそういう違和感を覚えること自体は、私は否定しない。というのは、私もそっち側だから。
でも一方で、たとえば携帯電話を「携帯」と略すことに私はそこまでの違和感を覚えない(いまは大抵「スマホ」だけど)。下駄箱にスニーカーをつっこみ、筆箱に筆は入っておらず、考えてみるとそもそも箱ですらない。なのに「ギガが減る」にはまだ馴染めない。私のどこかに線引きがある。
そして、それはみんなもそうなんじゃないかと思う。ゲームにお金を払うことを「課金」といったり、「耳障りのいい」なんて表現を使ったりする。逆に正しさに固執して、いまの時代ではまず使われない古い文語を多用したりする人もいる。何かを許せない人も、ほかの場所では別の何かを許している。それぞれが違うところに線を引いていて、だからこそ、他人の線引きや言葉選びにあまりうるさく口を出すものではないと思う。大切なのは何をいうかではなく、何をいおうとしているかだ。
自分の中で「差別」と「区別」のあいだに線を引く分にはよいけれど、「それは差別だからいけないことだ」「これは差別でなく区別だから問題ないんだ」というのを他人にまで押しつけてしまうのは少しこわい。
話はだいぶ逸れてしまうけど、せっかくだし、言葉の話もしてみたいなと思う。
的を射る、と、的を得る。
これはいわゆる「言葉の誤用」の例として有名なもののひとつだ。
(用法を誤っているわけではないので、誤用というより、「せざるを得ない」を「せざる負えない」と書くような、音で言葉を覚えたために生じた誤認識というほうが近いのかもしれないけれど、面倒なので誤用としておく。「いう」を「ゆう」と書くのはまたさらに話がずれ込むので考えないこととする。)
長らく誤用の代表例として語られてきた「的を得る」だが、実は間違いではなかった、という話がある。「的を得る」を誤用としていた国語辞典といえば三省堂だけど、三省堂国語辞典でも2013年に出た第7版からは的を射るの誤りとする表記が消えたらしい。軽く調べてみると、江戸時代の書物にも「的を得ず」という表記が出てきたりするとか。
この話について、私はちょっと思うところがある。
ここに、「的を得る」という言葉を使っている人がいる。とする。
それを聞いて「的を射る」ではないかと指摘する。その人は慌ててGoogle先生の力を借りて、さっきの話にたどり着く。なんだ、別に間違ってないじゃないか。的を得るでも正しいんじゃないか。そういうふうに言われる。
しかし、問題は結果的な「正しさ」ではない、と私は考える。
「的を射る」が正しく、「的を得る」は誤用であるという認識は長い時間をかけて人口に膾炙してきたわけで、それは国語辞典にも載るほどパブリックで盤石なものだったのだ。それがいまさら「的を得る」は別に誤りではないとされたとして、いままで「的を射る」が正しいとされる社会に身を置きながら「的を得る」を使いつづけてきた人間の正しさを裏づける根拠にはなりえない。
正しい行いが間違った動機ではいけない——私の好きな映画のひとつにこんな言葉が出てくる。この話はたぶん、それと似ている。結果的に「的を得る」が正しかったとしても、その言葉を使っていた理由が勘違いや聞き間違いに起因するものであれば何も誇れたことではない。知らずに正解するのは、本当に正解したといえるのか。
結果的な正しさは本質的な問題ではないのだ。被害がたいしたことがなかったからといって、あらかじめ災害に備えていた人間をばかにする権利は誰にもない。結果だけを見るのなら、シェイクスピアはサルでも書ける。
ただし、言葉の誤用に対して反射的に「それは間違いだ」と指摘してしまう人間にもまた思うところはある。そもそも言葉とは生物であり、人間が勝手に定めたものに過ぎず、世の中は相対的で絶対的正しさなど存在しないからだ。ある基準で見れば、間違っているのは自分のほうということだってあり得る。時代や地域によって、同じ言葉を違う意味で使われているというのも珍しい話ではない。
自分は正しい、という思い込みは何よりもおそろしいのだ。
なんだかちみっとだけ本筋に絡んできたような気がするので、話を差別のことへ戻す。
たとえば、世の中にはポジティヴが善でネガティヴが悪とされる価値観が普遍的にある。正義と悪といってもいい。
だから、ポジティヴな差別をする人間は許され、正義の側に立ってネガティヴな差別をする人間を糾弾する。ネガティヴな差別は「差別」であり、ポジティヴな差別は「区別」である、と彼らは言葉を使い分ける。差別と区別の違いというのはおそらく、ただそれだけのことなのだ。
本当は誰もが差別をしているのに、それが正義であれば見逃される。社会はそういうふうにして回っている。
誰もが差別をしているのだから、性差別や人種差別だってしていいはずだ——とか、そんなことをいいたいわけではない。逆に、いまの社会で許されている差別もすべて許すべきではない、というのも少し違うと思う。実際、「許される差別」を許さなければ、社会は一切回らなくなるだろうから。
私がいいたいのは、ただ、それを自覚してほしいということ。
誰もが差別をしているのだと自覚したうえで、許される差別と許されない差別の線引きに悩みつづけることこそ文明人としての義務ではないかと思うのだ。「これは差別」「これは差別じゃない」と考えることは簡単だ。でもそうすると、そこには思考が介在しない。自分は差別をしているという罪悪感を持ちつづけることが肝要で、「これでよい」「これが正しい」と簡潔させてはいけない。この世に完璧な善はなく、また完璧な悪もない。思考停止は怠慢だ。
すべてははじめから分かたれているわけではなくて、地続きのものに銘々で線を引いているだけだ。だからこそ、その線引きは正しいのかどうか、常に自問する必要がある。その結果、過去の自分と矛盾してもよいのだ。いまの自分はこう思う、でも明日の自分は違うふうに考えたってかまわない。過去の自分と矛盾するより、ずっと考えが変わらないほうがずっと不健全だ。もちろん変化すれば必ずよい方向に転がるわけではなく、変化する前のほうがよかったということもあるだろう。けれど、「変化をすれば良くなる」わけでなくとも、「変化すること自体が良いこと」なのだ。
自問しつづけること。考えつづけること。
それが生きるということだ——と、私のまじめな部分がいっている。
でも、まじめに生きると幸せになれない、とも思う。
私は幸せになりたいから、どうしたものかと考えてしまう。どうにもこうにも悩ましいけれど、まあでも、そんなふうに考えているのが私の性に合っているのかもしれない。不幸に気づいていないだけの幸せなんて、私はやっぱり欲しくないのだ。