忘京

 すべてフィクションです。

無題(選択、背中)

 高校一年の秋だった。

 数学の課題を忘れた。
 五限目の予鈴が鳴る。数学の長谷川は説教が長い。またあのねちねちとした正論を聞きながすのも面倒だと思って、ぼくは寝たふりを中断して顔をあげた。
 メガネをかけて、ぼーっと時計を見つめる。わざとらしく「といれ」とつぶやいて席を立つ。ふらふらと寝ぼけたような足どりで教室をでて階段をあがる。本当はそんなことをしなくても、誰もぼくには見向きもしないと知っていた。
 いつもさぼるのに使っている空き教室は、校舎四階の奥まったところにある。引き戸をひらくと、南向きの窓から陽光がさした。カーテンはいつも閉まっているはずなのに。思わず手でひさしをつくると、白くかすむ視界の中、窓のところに逆光で黒い影が浮かんでいた。
 ——誰かいる。
 まずい、と思ったときには遅かった。こちらに気づいた影がゆっくりと振り向く。黒塗りの顔に薄く浮かんだ瞳は鋭く、ぼくは引き戸に手をかけたまま立ちつくした。
「なに?」と影は言った。聞きおぼえのある声だった。
 顔を見ようと目を細めていると、だんだん光に目が慣れてくる。さらりとした長めの髪。整った顔立ち。それはぼくのクラスメイトの男だった。いつも仲間と群れて馬鹿騒ぎしている男子の筆頭である。
 正体がわかると、今度はそんな男がここで何をしているのかと新たな疑問が湧いてくる。さぼりだろうか。だとしても、どうしてこの教室に。ひとりで。
 窓から風が吹きこんで、彼の髪がなびく。そうしてようやく気がついた。窓があいている。窓枠に腰をおろす彼の脚が見えない。おそらく彼は窓の外へ足を投げだすように座っている。
 危なくないのか、と一瞬だけ思ってから、危ないからそうしているのだと気づいた。
「……自殺?」
 必死に言葉を探したけれど、結局それしか思いつかなかった。彼は何も言わずに目を伏せたけれど、その表情を見れば答えは明らかだ。
 飛びおりなんて遠い世界の出来事だと思っていた。
 自分で訊いておきながら、こういうときにどういう言葉をかけるべきなのかもわからない。とにかく止めなくてはいけないのだと思う。どうしよう、どうしよう。はやく何か言わなくてはという焦燥に、へたなことを言ったら本当に死んでしまうかもしれないという不安が加わって、使い慣れていない脳がめちゃくちゃに空回りをはじめる。
 そんな思考を邪魔するように、唐突にチャイムが鳴った。
 五限目の本鈴だった。
「ドア」と彼は言って、窓の外へ視線をもどした。
「しめて。先生くるやろ」
 ぼくは黙って言われたとおりにする。それからおそるおそる窓際の椅子まで歩いていくと、一瞬、窓の外で揺れる彼の脚が見えて背筋が凍った。
 日陰に置かれた椅子に腰をおろし、彼の横顔をながめてみる。強い陽光に照らされ、秀麗な顔はいつも以上にきれいに見える。死のうとしている彼が光の中にいて、ぼくのほうが影の中にいるというのはなんだか皮肉だ。いつも楽しそうに細めている切れ長の目は、いまはどこか無感情に感じられる。つまらなそうに校舎裏を見おろす彼からは何か大切なものが抜けおちている感じがして、強い風でも吹いたらそのまま飛んでいってしまうような気がする。
「あぶないよ」
 しばらく悩んでから、ぼくはあえて軽い調子で声をかけた。
「落ちたら死んじゃうかも」
「かもな」
 彼は振り向きもせずに答えた。
「何があったの」
「別に。なんもないよ」
「でも、理由があるからそんなんしようとしとるんやろ」
「理由もなく死んだらあかんの?」
 強い視線に射すくめられて、すぐには言葉を返せなかった。相変わらず無感情な彼の瞳には、しかし妙な迫力がある。これから死のうとしていたくせに。
 わけもないのに飛びおりなんて考えるはずがない。そんなのは当たり前だと思っていたし、あらためて考えてみてもやっぱり、そんなふうに思う気持ちがぼくには理解できなかった。ぼくと違って、彼には友だちだってたくさんいるのに。
 ぼくがそう言うと、彼は少し嫌そうな顔をした。
「あいつら友だちと違うわ。仲よさそうに振る舞っとるだけ」
 そうなんや、とここは素直にひきさがった。人間関係のことは、ぼくにはよくわからない。
「恋人は?」とも訊いてみると、意外にも彼は「できたことない」と答えた。もしかしたらそれが理由なのかもしれない、と思った。
「でも、きみ、モテるやんか。生きとったらそのうちできるよ」
 だから死ぬべきではない、と言ったつもりだった。励ましたつもりだった。
 けれども彼は、今度こそ不快感に顔をゆがめた。
「なんなん、その、女子とつきあうのがしあわせみたいな。おまえの価値観押しつけんなや」
 吐き捨てるように言って、ぷいと顔をそむけてしまった。
 なぜ怒るのかわからなかったけれど、ぼくは「ごめん」と頭をさげる。それからしばらく黙りこんでいた。何を言っても怒られそうな気がした。
「……でも、死ぬのはあかん」
 しばらく考えてから、ぼくはぽつんとつぶやいた。
 だって、死んだら全部が終わってしまう。生きていれば楽しいことだってあるけれども、死んだらそれもなくなるのだ。生きるとか死ぬとか、そういうのは軽々しく決めていいものではない。もっとしっかりと考えるべきだと思う。
「考えたよ」と彼は言った。
 彼はどこか遠くを見つめて、脚をゆらゆらさせながら言葉をつづける。
「ここ一ヶ月、ずっと死ぬことだけ考えとった。せやけど気持ちは変わらんかった」
「そんな考えたんやったら、理由くらいあるやろ」
「おまえは理由があって生きとるんか?」
 さっきから彼は質問ばかり返してくる。
「なんで死ぬのが悪いことみたいに言われなあかんねん。死ぬのを邪魔すんのが善いことになんねん。気色悪い。そういうみんなは、別に理由なく生きてんねやろ。死ぬって選択肢を、はなから自分で消しとるだけや」
 いきなりまくしたてるように言われて、ぼくは何を言えばいいのかわからなくなってしまった。そういうやりかたはずるいと思う。質問に全部答えたって、どうせ彼は最初から納得なんかする気はないのだ。あれは自分の正しさを確認するための質問だ。
 だからぼくは彼の質問に答えず、代わりに別の答えを返した。
「死んだら悲しむ人がおるよ」
「はあ?」
 彼はまたこちらを振り向いた。飛びたいならさっさと飛べばいいのに、こうしてぼくを無視できないのは、やっぱり死にたくないからだと思う。
「家族も、クラスの人も、みんな悲しむやろ。自殺なんて」
 ぼくは言った。それから「迷惑もかかる」とつけたした。
 それが逆鱗に触れたのかもしれない。彼は視線を落として、また口をひらいた。
「さっきまでおれのためみたいなこと言ってたくせに。結局それやんか。嘘つき」
 うってかわって、ぼそぼそと小さな声だった。
「きみさ、目の前で死にそうな人がおったら止めるべきやって思いこんどるだけやろ。自分じゃなんも考えてへん。死ぬのはあかんって教わったから、それが正しいって無邪気に信じとるだけ。もっと頭使えや。常識に囚われすぎやねん」
 どうしてぼくがここまで言われなくてはいけないのか。
 なんだか急に腹が立ってきた。背中を蹴りつけてやりたい気分だった。あんなことを言っているけれど、いざとなったら怖気づくに決まっている。見れば、彼の目には少し涙が浮かんでいた。やっぱりそうなのだ。こんなやつに好き放題言われるのは我慢ならなかった。
 そんなに死にたいなら、勝手に死ねばいい。
「ぼく、帰るから」
 それだけ言って立ちあがると、ぼくは教室をでた。一度も振り向かなかったし、彼もひきとめたりしなかった。
 とはいえ授業中の教室へ入っていく度胸はぼくにはなく、昇降口までおりたぼくは、そのまま外履きに履きかえて帰路についた。かばんを教室に置いたままだったが、なにもかもがどうでもよかった。

 夕食には買い置きのカップ麺をすすって、風呂にも入らず部屋に戻った。脱いだ制服は床に放って、電気をつけたまま下着姿でベッドに仰向けになる。テレビもネットもなんとなく見るのが恐かった。ぼーっと天井を眺めながら、ぼくは考えた。
 あいつ、どうなったんやろか。
 そもそもどうして彼を止めたのだろうと思い返してみる。ぼくは本当に彼のためを思っていただろうか、と自問する。彼が死んでも、たぶんぼくは悲しいとも感じなかったと思う。そうでなければ、もっと必死になって止めていたはずだと思う。彼の言ったとおりかもしれない。死にそうな人がいたら止めるもの。ぼくはそういう常識に囚われていた。
 ぼくは考える。彼はいったい、どうしてほしかったのだろう。
 彼の言葉と、それから涙を思い出す。本当は死にたくない、というのは間違っていなかったような気がする。ぼくに止めてほしかったのだろうか。けれども、死にたいという言葉もやっぱり嘘ではなかったように思える。ぼくはどうするべきだったのか、いくら考えても、どうしても答えはでない。何が正しいのかわからない。
 ぼくはさらに考える。ぼくはどうして生きているのだろう。
 生きる理由が、果たしてぼくにあるだろうか。まだ見ぬ明日が生きる理由になるのなら、それは同時に死ぬ理由にだってなるような気がする。死ぬって選択肢をはなから自分で消しとるだけや。彼の言葉が脳裏によぎる。そのとおりかもしれない、と思う。理由なんてない。生きるしかないから生きている。そうして何も考えず、ぼくは死んでいくのだろう。そんな自分の人生が、ひどく空虚であるように思えた。
「まだ起きてんの。明日も学校やろ」
 日付が変わるころ、帰ってきた母親から声をかけられた。
 ぼくは黙って電気を消すと、そのまま眠りについた。
 ——あいつ、ちゃんと死ねたかな。
 布団の中で、ぼくはそんなことを思う。

 いつもより三十分遅く起きだして、シャワーを浴びてから家をでた。
 教室に着いたのは、ちょうど一時間目のあとの休み時間だった。こうも堂々と遅刻してきたというのに、クラスメイトはぼくのことなんて見向きもしない。
 席についたぼくは横目で彼の席を探す。予想はしていたけれど、やっぱり誰も座っていなかった。ふと、うしろの席から彼の名前が聞こえた。気づいてすぐに耳をふさいだけれども、彼らの声は頭から離れなかった。
 どこか楽しそうで茶化すような声色。あいつら友だちと違う、と彼が言っていたのを思いだす。彼の死も、友だちでない彼らには響かないのだろう。それを知ったら、彼は死んだのを後悔するだろうか。ぼくは無駄なことばかり考える。
 本当はまじめに授業を受けるつもりだったのに、結局ぼくはまた教室をでた。
 階段を早足で駆けあがる。ぼくもあそこへいけば、彼のことが理解できるような気がした。
 その教室の雰囲気は昨日と何も変わらなかった。窓をあけて下を見てみる。目をこらすと、芝生の縁石に黒いシミのようなものが見える。気がする。もしかすると彼の血かもしれないし、見間違いかもしれない。しかし、それ以外に特に変わった様子はない。
 窓枠に手をかけて、身体を持ちあげる。そのままそこに座ってみる。脚を窓の外へ回す。バランスを崩して、あやうく落ちそうになる。とっさに窓をつかんで踏みとどまったけれど、そんな必要はなかったかもしれないと思いなおした。
 窓枠に座って、もう一度、校舎裏を見おろしてみる。
 屋上よりも少し低い。けれど、この微妙な高さが逆に、落ちたときの痛みをリアルに想像させた。彼がここを選んだ理由もわかる気がする。ここから飛びおりようと思えたなら、それはやっぱり、本当に死にたいということなのだろう。
 難しいことを考えるのは苦手だ。うまく言葉にすることができない。でも、彼の気持ちがなんとなく理解できたような気がした。
 いまなら飛べる、と思う。
 背後で引き戸がひらく音がした。
「え?」
 驚いて振り向くと、そこには彼が立っていた。
 一瞬だけ目があってから、ぼくは視線を下にそらした。彼が松葉杖をついている。
 その瞬間の感情を、ぼくはやっぱり言葉で表すことができない。どこかほっとしたような、同時に残念でもあるような、複雑な思いだった。
 彼はやっぱり死のうとした。それなのに死ねなかったのだ。
 どういう言葉をかければいいのかわからずにいると、彼は松葉杖を不器用に操りながら窓のそばまで歩みよってきた。それから、奇妙にぎこちない笑みを浮かべて口をひらく。
「飛ぶ?」
 少し考えてから、ぼくは答えた。
「……いや、やっぱやめとく」
「そか」
 それでもぼくは、しばらく窓枠に座ったままでいた。ぼくは光の中にいた。
 死ぬのに理由はいらないのかもしれない、と思う。でもやっぱり、生きるのにも理由はいらないと思う。死ぬという選択肢を抱えて、それでも今日は、ひとまず生きる選択をする。それがいいとか悪いとかではなくて、ぼくははじめて、生きているという感じがした。

 高校を卒業したのち、彼がどうなったかについては、ぼくの知るところではない。