忘京

 すべてフィクションです。

無題(バイト、嘘)

 高校生になったら、バイトをしようと決めていた。
 バイト先には学校近くのコンビニを選んだ。シフトは月曜と水曜の早朝、五時から八時。放課後の時間がなくなるのは嫌だったから。
 学校の近くにはコンビニが二店あって、大きくて学校に近いほうは競争率が高かったから、私は小さいほうで働くことになった。お客さんも少なくて、忙しくなることはほとんどないから、こっちを選んで正解だったと思う。勤務中にひとりも来ないこともあるくらいだった。
 でも、毎週月曜の朝に、必ずやってくる人がいる。
 朝の六時前に、きょろきょろ周りを気にするようなそぶりで入ってきて、いつも決まったマンガ雑誌を買って、そそくさと帰っていく男の子。
 彼は、同じクラスの新崎くんだった。とはいっても、彼は入学してすぐ学校にこなくなってしまったから、同じクラスって感じはあんまりしないけど。理由は知らない。でも彼のこと自体は、実は以前から知っていた。

 小学六年のころ同じクラスだった新崎くんは、すごく明るくてヒーローみたいな人だった。
 当時の私はそんな彼とは正反対で、いつも自分の席で読書をして周りから浮いている根暗女子。でも彼は、そんな私にも気にせず声をかけてくれた。
 なにしてるの?——という彼の声を、私はいまでも憶えている。
 小学生女子なんてみんな恋に恋してるような生き物だから、私もすぐに彼のことを好きになった。全然話したこともないのに。それからはずっと告白のタイミングをうかがっていて、卒業式の日になってから、私はようやくラブレターを渡した。返事は彼の友達づてだった。
 ——気持ち悪いから無理だってさ。

 そんな彼が不登校になるっていうんだから、世の中わからないものだよねえ、と思う。
 私は品出しを終えてレジへ戻ると、そこにちょうど新崎くんがやってきた。いつもどおりマンガ雑誌を持ってきて、小声で「お願いします」と言って頭をさげる。こういう律儀なところが彼らしい。私は慣れた手つきでレジ打ちを済ませると、おつりを渡しながら言った。
「いまもマンガ好きなんだね」
 いきなり声をかけられて、よほどびっくりしたらしい。彼の身体が面白いくらいに跳ねた。挙動不審におろおろする彼に、私は思わず笑ってしまう。
「宇佐美だよ」と、名札を見せながら名乗る。
「新崎くんでしょ? 不登校の新崎くん」
 わざと意地の悪い言い方をしてみると、彼は諦めたように頷いた。その様子はひどく弱々しくて、いまの彼なら、言えば何でも聞いてくれるんじゃないかという気がした。
「ちょっとお話しない?」
 私は言った。「バイト暇だし。どうせ他にお客さんもこないから」
「……うん」と彼は頷いた。

 カウンターに頬杖をついて、彼の顔を眺めてみる。
 髪はぼさぼさで、肌が荒れていて、無精ひげを生やしている。そっか、もう高校生だもんね、と思う。私の知っている彼は、肌もつるつるで、ひげなんて生えていなかったころの彼だ。目の下にはクマがあって、見るからに不健康そうな顔をしている。
 ねむそうだねえ、と言ってみると、彼は「眠いから」と答えた。いまは昼夜逆転していて、帰ってマンガを読んだら寝るつもりだったらしい。
 そういうのって本当にあるんだ。夜も好きなだけ起きていられるのって、ちょっと楽しそう。何気なく言ってみると、楽しくないよ、と彼は言った。
「どうして学校こなくなっちゃったの?」と訊いてみる。彼は答えない。
「宇佐美は、学校どう?」と今度は彼から訊かれる。たのしいよ、と私は答える。
 そんななんでもない会話を続けているうちに、いまなら訊けるんじゃないかって気がした。
「あのさ」
 首をかしげる彼に、私はずっと気になっていた疑問をぶつけた。
「私のこと、気持ち悪いって、本当に言ったの?」
 彼はまた驚いたようにびくっとして、それから、恐る恐るというふうに口を開いた。
「……なにそれ」
 本当に知らないのだろうか。それとも、憶えていないだけなのだろうか。
「卒業式の日にさ、手紙を渡したの。おぼえてる?」
「うん」と彼は頷く。
「その返事を柳田くんが伝えてきた。新崎くんが、気持ち悪いから無理って言ってた、って」
 彼はずいぶん驚いている様子だった。何か言おうとしているのか口を開けては閉じ、結局、私から言うまで何も言わなかった。
「……もしかして、柳田くんの嘘、だったのかな」
 そう訊くと、彼は「かもしれない」と頷いた。
「おれが宇佐美にそんなこと言うわけない」
「——そっか」
 宇佐美にそんなこと言うわけない。彼の言葉を、私は何度も反芻した。長年の疑問は、思ったよりあっさり解決してしまった。
「よかったあ〜」
 安心したら力が抜けた。私は両腕を伸ばして、カウンターの上にべたーっとなる。
 こんなことなら、もっと早く訊いておけばよかった。新崎くんがそんなことを言うはずないことくらい、はじめからわかってたはずだった。あのときすぐに訊いておけば、こんなに引きずることもなかったのに、と思う。
 せっかくだからあのときの告白の答えも聞きたかったけど、新崎くんは何も言わなかったし、私から訊くのもなんだか恥ずかしかった。それに、私はいまでも彼のことが好きなのか、自分でもよくわからなかった。

 でも、この日をきっかけに、私と彼との距離は少しずつ縮まっていった。
 彼は決まって毎週月曜の朝にマンガ雑誌を買いにくる。他にお客さんがいなければ、そのままふたりで話をする。そんな関係。
 話をしてみると、彼はいまでも、あのころのままだった。あのころよりも少し内気になったけど、やっぱり優しくて、しゃべっているときは楽しそうに笑う。
 そんな顔が見られるのがうれしくて、私は彼といろいろなことを話した。あのころは話したくても話せなかったことも、いまなら話すことができた。彼とのおしゃべりで一週間が始まる。それがなんだか幸せで、ついつい話しすぎることもあった。そのせいで店を出るのが遅れて、学校に遅刻することも増えた。
 でも、彼が学校にこなくなった理由は、どうしても教えてくれなかった。

 それから一ヶ月ほど経ったころだった。
 バイトをやめなさい、とお母さんは言った。
 バイトのせいで遅刻が増えた。早朝シフトのために睡眠時間を減らしているから、授業中に寝ることもあった。だからやめなさい、と。
 少なくとも学校生活が安定するまでは学業に専念するように言われた。
 そのことを新崎くんに話すと、彼は「まあ、仕方ないのかもな」と言った。私も反論できなかった。お母さんは厳しいけれど、いつも正しいことを言う。
 やめるといっても即日は無理だから、再来週の月曜日までは出勤する。そう説明すると、新崎くんは寂しそうに「そっか」と言った。
「——もしそうなったら、もう会えないな」
 その次の月曜日は、他のお客さんがいて話せなかった。

 最後の出勤日だった。その日は祝日だったから、バイトが終わってからも新崎くんと少し話せたらいいなと思っていた。でも、品出し中に、私は異変に気がついた。
 いつもの場所に、いつもの雑誌がなかった。
 そういえば——と私は思いだす。月曜が祝日のときは発売日が火曜にずれる、と新崎くんが言っていた気がする。
 雑誌がなくても、彼はきてくれるだろうか。
 少しだけ期待して待ってみたけど、すぐに六時を回ってしまった。彼はいつも、必ず六時より前にくる。
 ——じゃあ、もう、こないんだ。
 彼はたぶん、別に私と話したいわけじゃない。きっと私が退屈そうだから、暇つぶしにつきあってくれていただけだ。わかってるつもりだったけれど、あらためて思うと、なんだか悲しかった。
 ため息をついてぼーっとしていると、入店音が鳴って自動ドアが開いた。いらっしゃいませー、と半ば反射で挨拶をして、ちらりと入り口のほうを見る。
「宇佐美」
 そこに立っていたのは彼だった。
 新崎くんは真剣な顔をしてレジの前まで歩いてくると、いきなり「ごめん」と頭をさげた。
「なに? なんのこと?」
「嘘ついてたんだ」と新崎くんは言った。
「本当は、おれが言ったんだよ」
 彼が言っているのは、あの日の、ラブレターへの返事のことだった。

 ——おれさ、ずっと後悔してた。
 あのころの自分はまわりに流されて、本当はそんな人間じゃないのに、リーダーのような扱いを受けていた。そんな立場を失わないことに必死だった。
 宇佐美からもらった手紙は、まわりのみんなにもすぐに見つかってしまった。
「あんな暗いやつが新崎とつきあえるわけないのにな」
 みんなそう言って笑うから、自分もそれに同調した。気持ち悪いというのも、すべて自分が言った言葉だ。だから、宇佐美がそれを言ったとき、どきっとした。
 卒業式の日、本当は、宇佐美に直接返事を伝えたかった。でも結局できなくて、中学にあがってからも、それをずっと後悔していた。そして気づいたら、まわりにいたみんなはいなくなっていて、自分はひとりになった。そんな薄情なやつらのために、宇佐美にあんなこと言ったんだって思うと、余計に自分が嫌になった。
 高校にあがると、偶然、同じクラスに宇佐美がいた。今度こそチャンスだって思ったけど、宇佐美は自分の知る宇佐美ではなくなっていた。明るくなって、友達とかも普通にいるみたいで、ああ、おれは本当にひとりなんだ、と思った。それから学校にも行けなくなった。
 新崎くんは、そういうふうに説明した。
 私は何も答えない。
「……本当はさ、宇佐美に告白されて、うれしかったんだ」
 少し躊躇ってから、彼は言った。
「本当は、おれ、宇佐美が好きだった。おれと違って、たとえクラスから浮いてても、自分のしたいようにできる宇佐美がうらやましかった」
 私は答えない。
「ごめん」と彼はもう一度頭をさげた。
「もう会えないって思ったら、やっぱり、本当のこと言わなくちゃって」
「そう」と私は言った。
 それから少し考えて、私は「でも、お互いさまだよ」と言った。
 なぜなら、私も嘘をついたから。新崎くんがあんなこと言うはずない——なんて、本当にそう思っていたなら、もっと早く解決してたはずだ。本当のことを聞けずに逃げていたのは、やっぱり、新崎くんを信じられなかったからだと思う。だから、お互いさま。
 新崎くんは「でも……」と納得しない様子だったけれど、「気にしないで」と言うと、彼はしぶしぶと頷いた。
「——それにさ、会えないなんて言わないでよ」
 彼の目を見つめて、私は笑う。
「会いたいなら学校くればいいじゃん」
 待ってるからさ、と私は最後に言った。

 新崎くんが学校にきたのは、翌週の月曜だった。
 教室のドアが開くとみんなの視線が彼に集まって、そこら中でひそひそ話が始まった。彼はぎこちない歩き方で教室に入ってくる。元々彼の席だったところに別の男子が座っているのを見て、自分のいないあいだに席替えがおこなわれたことに気がついたようだった。きょろきょろと教室を見まわして自分の席を探している。
 私は席を立って、そんな彼に声をかけた。
「なにしてるの?」
 彼への気持ちについては、これから時間をかけて考えることにした。