忘京

 すべてフィクションです。

加害者として生きる、ということ。

 あらゆるコミュニケーションは加害であり、人は誰しもが加害者である。
 と、センセーショナルな切り出し方をしてみる。
 してみた。ので、そういう話をしてみましょう。

 まず、ここでいう加害とは「他者にストレスを与えること」と定義しておきます。仮にね。
 たとえば、誰かに挨拶をするのは加害でしょうか。つまり、挨拶をされたその誰かは、ストレスを感じるでしょうか。
 挨拶をするというのは、相手にも挨拶を求める行為です。挨拶をされた人間は、挨拶を返すか、返さないかの選択を迫られます。選択をするというのはたいへんなストレスを伴う行為であり、つまり、挨拶をするというのは相手にストレスを与える行為=加害であるといえるでしょう。
 さらにいえば、他者から受ける刺激はすべてがストレスです。たとえ挨拶をされなくても、すれ違った相手の存在を意識する、意識させられるというのはストレスなのです。
 他者が存在するというだけで、我々は常に微細なストレスに晒されている。
 ——と、極端なことをいってみました。
 けれども、ここではそういうものだと思っていただけると助かります。

 一般的に「加害」とされるものには、はっきりとした基準がありません。
 諸ハラスメントやいじめの定義を見てみても、「被害者が加害だと感じたら加害だ」というのが基準とされていることが多い。
 なので私は、いったん他者への干渉をすべて「加害」と定義しました。そして、そのなかにはボーダーの曖昧な「許される加害」と「許されない加害」がある。
 これはいってしまえば言葉遊びのようなものです。が、こうすることで、一般的に加害とされる行為とそうでない行為のあいだには必ずしも明確な差はない、と考えやすくなる。「これはいい」「あれはだめ」と基準をつくって固定してしまうと、視野が狭窄しがちです。だから、「許される加害」と「許されない加害」を仮固定的に定めつつ、そのすべてが広義の「加害」に含まれるという考え方を私はするのです。

 大切なのは、加害にはグラデーションがあるということです。
 多少叩かれたくらいでは何も感じない方もいれば、少し大きな声で挨拶をされただけでも被害を受けたと感じる(というより、実際にトラウマになってしまう)方もいる。それはつまり、誰もが一般的な意味のうえでも「加害者」になる可能性を抱えている、ということでもあります。それが意図的であろうと、なかろうと、相手の閾値を超えたストレスを与えてしまえば、ただちに加害者です。
 誰かにひどいことをいってしまった、してしまった、ということ。
 おそらく多くの方々に、一度はそのような経験があるのではないかと思います。
 しかしたとえば、いわれた側(被害者)が気にしていない言葉を、いった側(加害者)がずっと忘れられずにいる——という場合はどうでしょう。
 加害者は長いあいだ傷ついており、けれど被害者はとうにそんなことは忘れている。さらには、被害者から許しを得ても第三者からは許されない、ということも往々にしてあります。加害者がどれだけ傷ついていようと、被害者はもっと傷ついていると一蹴される光景は時折目にします。
 もちろん、たとえばいじめのような加害行為を擁護したいわけではありません。
 けれども、加害者は絶対悪である、というような物事の単純化を私は好みません。そうした単純化は無意識に「自分」と「加害者」分けて考えている。自分は加害をしていない、今後もしない、するはずがない、という考えはいささか傲慢なように思えます。
 世の中は単純ではない。許されるか許されないかというのは個々の事例を見て語るべき事柄であって、すべての加害を十把一絡げに語ろうと思えば、必ず綻びが生まれます。
 どんな人間も、一線を越えれば、簡単に加害者になり得る。そしてそのボーダーは常に曖昧です。
 だからこそ、加害行為に対しての許す許さないは法と当事者に委ね、第三者による私刑は避けるべきと考えます。他人の加害ばかりを責め立てていると、きっと自分の加害に気づけなくなるから。


 生きづらさというのは、「加害」に敏感であることに起因しているのではないか。
 そういったことを、最近、私はよく考えます。
 それは自分が被害を受けたかどうかにかかわらず、他人から他人への、そして自分から他人への加害も含めてです。
 ちょっとしたことで傷ついてしまう人。自分には関係のないことでも傷ついてしまう人。自分のしてしまった行為で自分が傷ついてしまう人。
 他方、自分の加害に鈍感で、常に被害者でいられる人というのは、むしろ強かに見えます。

 私自身もそうですが、あらゆる加害に対して敏感になると、人の世は住みにくい。
 あらゆる人間が大なり小なりの加害者であることを自覚すれば、もっと生きやすくなるのに——というのは、私のわがままでしょうか。