忘京

 すべてフィクションです。

 なんだかひどく眠たいと思っていたら、どうやら、きょうは雨がふっていたらしい。スマホを見るまで、まったく気がつかなかった。もう2ヶ月は外へでていないから。

 もうすぐ誕生日がくる。
 そしたら、わたしは28になる。
 漠然と27で死ぬのだと思っていたわたしが、死ねないまま、28になる。手遅れになる。手遅れになってしまう。いままで幾度となく通り過ぎてきたはずの感覚は、この歳になってもまだ新鮮な焦燥をかきたててくる。
 20歳になったとき、長生きの猫でも寿命を迎える歳だな、と思った。何もしなければ、わたしは猫よりも長く生きてしまうのだと知った。そしていま27の壁さえも超えようとしているわたしは、もしかすると、このままずるずると生き続けてしまうのかもしれないと思う。
 なにをしても、なにもしなくても、わたしは生きてしまう。いまは死ぬのに覚悟が必要な時代だから。
 いまからなにをしたところで、なにをなしとげたところで、とりたてて注目を浴びることは決してない。わたしはもう、最年少にはなれない。最年少デビュー。若き才能。自分の天才を無邪気に信じていたころの夢は、気づけばみんな腐ってしまった。
 だから、とはいわないけれど、きょうはなにもする気がおきない。
 部屋に停滞したにおいが充満している。何年も前の空気が、わたしの部屋にはそのまま漂っているような気がする。換気をしようにも、猫が逃げるから窓はあけられない。外界から隔絶した部屋に、わたしは猫と一緒に自分をとじこめている。
 なにも書けないな、と思って、なんでもいいから書いてみよう、とむりやりキーボードに向かってみたはいいけれど、わたしはやっぱりこういうことばかり書いてしまう。

 ぐるぐる、ぐるぐる、同じことを考える。
 というより、考えようとしている。なにか考えようとして、考えられないまま、それでも考えようと思っている。それだけのことで時間は過ぎる。
 頭には、いやなことばかりが浮かぶ。
 べつに落ちこんでいるわけじゃない。わけじゃないけど、おなかの底からせりあがってくる言葉は、なんだかいやなにおいがする。いわないほうがいいと思って隠していた言葉が、わたし自身でさえ知らないあいだに醸成されていたみたいだった。
 こんなことなら、はやいうちに口にしてしまえばよかった。口から出すのも口に入れるのも「口にする」というのはなんだかおもしろいなと、ふと思う。思っただけで、そこにはなんの意味もない。
 いやなにおいのする話をしたい。
 あとになってから、書かなければよかったと思うようなことを書きたい。
 好きなひとには読まれたくないな、と思うけど、それはうそで、本当のところは「嫌われたくない」であり、つまり「読んだうえで受けいれてほしい」なのだと思う。
 そんなふうを思わないといけないようなことを、わたしも一度くらい書いてみたい。


 好きでも苦手なものというのが、ある。
 それはたとえば猫アレルギーのようなもので、どれだけそれが好きでも、自分のほかの部分が不随意に拒否反応をおこしてしまうような。
 わたしにとっては、ひとつ、「百合」というのがそれだった。

 むかし、同性の子とつきあっていた時期がある。
 当時、わたしも彼女もそれをことさら隠すようなことはしなくて、それでも幸い、周りから白い目で見られるようなことはなかった。それなのに、わたしたちはうまくいかなかった。
 そのことを思いかえすたび、脳裡にちらつくのが「百合」という言葉だった。
 わたしと彼女の関係を、気持ちを、そんな言葉でパッケージされるのは、なんだか気味が悪かった。わたしたちの関係は、はじめからそういうふうにつくられたのではなくて、わたしたちの意思で選びとったもののはずだった。敵をつくるよりも、味方のような顔をしてそんな言葉を浴びせられるほうがよっぽどいやだった。
 きれいだからタチが悪いものというのもある。百合という言葉はきれいで、だからこそ、わたしたちを形容するにはふさわしくなかった。わたしと彼女のあいだにある感情はひどくありふれていて、特別なんかではないはずだったから。
 なにかを過剰に特別視するというのは、見たいように見るという自分本位なおこないでしかないのだと、わたしは思う。

 べつに、世間で百合といわれるものが嫌いなわけではない。
 百合だからと好きになることはないけれど、それは単にわたしがジャンルで作品を好きになることがないだけ。人間関係を深く描いている作品は好きになることが多いし、そこさえ刺されば、それが男女でも男性同士でも女性同士でも構わず好きになる。
 わたしがどうしても苦手なのは、きっと作品それ自体ではなくて、それを神聖視するような周りの目なのだと思う。
 思えば、わたしはよくいわれる「尊い」という言葉もすこし苦手だ。なんでだろう。
 うまく言語化できないけれど、「百合」とか「尊い」は便利な言葉だから、曖昧なものをそうした定型的な言葉に押しこめてしまう世間の空気感が苦手なのかもしれない。
 そういう感覚がまずあって、その先に、作品に触れながらもそうした読者・視聴者の存在を無意識に想像してしまう、というのがある。いまどきの作品には作中にそうした読者視点の感情を露わにするキャラクターが出てきたりして、想像を補強されてしまうことも少なくない。そうなると、作品自体を楽しむのにも本来以上の力が必要になってくる。
 作品そのものは好きなのに、作品そのものを純粋に楽しむことが難しい。どうしてもノイズが混じってしまって、それがときおり拒否反応をひきおこす。わたしの百合が苦手というのも、たぶん、そういう感じがする。

 なんだか、ままならない。
 結局はぜんぶ、わたしの内面的な問題。こうして自省に着地するのがわかりきっていたから、やっぱりこういう話はしないほうがよかった。

 歳をとるにつれて、苦手ばかりが増える。
 わたしはもう28になる。27のうちに死ねなかったわたしは、いったいいつまで生きてしまうのだろうと思う。
 そうして、死ぬときまでに、いったいどれだけ苦手なものが増えていることだろう。それでも好きでいられるものが、この世界にはあるのだろうか。
 そんな未来のことよりも、過去のことを考えるほうが、わたしの性に合っている気は、する。