忘京

 すべてフィクションです。

なにも書けません。

 

 たとえば、世界には速度があります。
 光にも、音にも、それぞれ別の速度がある。それが目や耳に届いて、さらには脳に到達するまでにも、そこには速度がある。ひとの神経は、音速よりもずっと遅いのです。町内放送がわんわんと揺らいで響くように、わたしたちは、それぞれずれた時間の光や音を観測している。本当の瞬間というものを、いまを、わたしたちは知ることができません。
 それを思うにつけ、ふと恐ろしくなる瞬間があります。わたしはいったいいつの時間を生きているのか。わたしは、本当はどこにいるのか。
 実際の世界と認識する世界には、どうしたって埋められないラグがあるのです。わたしたちはそのずれを精一杯補正しながら、この世界で生きている気になっているだけで、

それで?

 いつか、本気で死のうと思って、遺書を書いたことがあります。

こんなこと書いてもしかたない。暗いだけ。

 普通になれないわたしは、決して、特別にもなれない。普通になれないという悩みこそ、なにより凡庸で、普通のものにほかならないから。
 そんな言葉が、ずっと頭から離れない。そんなことはわかっているはずだった。わかっていても、痛みは消えてくれない。普通になりたいなんていうくせに、普通になってしまうことが怖くてたまらない。わたしは特別な

前も同じことを書いたような気がする。

 なにも書けません。なにも思いつきません。
 なにか書かなくちゃいけないと思っていても、焦燥感はむしろ思考を邪魔するばかりで、なにひとつ有用なアイデアは提供してくれない。それなら焦るだけ無駄なのに、どうしてこんなにも

なんの意味もない。ただの自己満足。思考停止。こんなので文字数を稼いでもやった気になるだけで、なんにもならない。作文の宿題じゃないんだ。

 さみしい。心細い。誰とも目が合わない。
 ずっと、誰かと本当の話をしてみたい、という思いが頭のすみっこに居座っている。
 本当の話。正直な話。わたしは、そんなの一度だってできた試しがない気がする。
 わたしは趣味の話が好き。けれどもわたしには趣味がないから、たいていは、ひとの話を聞くだけ。
 それでも、なにかを好きなひとの話を聞くのはすごく楽しい。それに、うらやましい。趣味がないわたしはそれを聞いて、そのひとの趣味をあとから追いかけてみたりする。それでもっと話ができたらうれしい、なんて思ってみる。

 けれど、ずっと置いていかれるような孤独感がつきまとうのは、そのせいなのかもしれない。
 そのひとだって、追いかけてばかりのわたしよりも、はじめから趣味が合う相手と話しているほうがずっと楽しそうだし、わたしががんばって追いかけているあいだに、そのひとの別の趣味を見つけると、なんだか、ものすごくさみしくなる。
 わたしは誰とも趣味が合わない。同じ話で盛りあがってみたいのに、ずっと、空回りしているような気がする。

またそれ。本当に暗いね。

 わたしの初恋の相手は、両親のことを「パパ」「ママ」と呼べるひとでした。
 人前でも恥ずかしがらずにその呼びかたを貫く姿が、とてもかっこいいひとでした。
 わたしはずっと、あのひとみたいになりたかった。憧れて、憧れて、字の癖や口癖までこっそり真似しようとしました。
 あのひとみたいに賢くないのに、賢ぶって、むずかしいことを考えてみたりもしました。というより、考えるふりをしてみました。
 何にでも興味を向けられる天真爛漫な瞳がまぶしくて、その博識がうらやましくて、わたしも、いろんなものが好きなふりをしてみました。
 表面だけあのひとをなぞったような仕草は、そのうち癖のように染みついてしまって、それはいまでも続いています。わたしはずっと嘘をついています。嘘の生きかたをしてきたから、本当のわたしなんて、どこにもいなくなってしまったように思います。

ことあるごとに恋の話。引きずりすぎ。しつこい。さっさと忘れないといけないのに。

 漱石が嫌いです。
 昨夜は満月でした。わたしは夜空を見上げながら、月がきれいだと思ってみました。なのに、それを言葉にはできませんでした。
 べつに、漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したという逸話が、出典不明で信憑性がないことは知っています。
 それでも、それなら、月がきれいだと口にできなかった怒りはいったい誰に向けたらいいのかわかりません。だから、わたしは漱石が嫌いです。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 AdobeのIllustratorでテキストを入力しようとすると、こんな文章がぽんと出てきます。これが漱石の『草枕』の冒頭であるということを、わたしは知りませんでした。
 中学の途中から不登校になったわたしは、教科書の『こころ』すら読んだことがありません。小学校のころ、学級図書にあった『吾輩は猫である』を読もうとしたけれど、おぼえているのは、何が書いてあるのかさっぱりわからなかったことだけです。
 自分の教養のなさを突きつけられるような気がするから、わたしは漱石が嫌いです。
 彼はえらそうな顔で頬杖をついて、「私を読め」と、いつも、漱石はわたしを睨んでくるのです。

 けれど、そんなわたしの財布の中にも、たくさんの漱石がひしめいています。
 ぜんぶ諭吉になればいいのに、と、たまに思います。

使いまわし。千円札はもう漱石じゃなくて英世。それに、嫌いなのは漱石だけじゃない。本当はきっと誰のことも好きじゃない。

 もうだめです。死んでしまいたい。

誰かに慰めてほしいだけのくせに。

本当に、どうしようもないことしか浮かばない。

わたしはいつも、自分の話ばかりだ。

わたしはいつも、過去の話ばかりだ。

胸のまんなかにはずっと、余生を生きている、という感覚がある。

いまあるものをひたすらに反すうして、しだいにすり切れていくそれらを消費して、残された寿命を削っていくだけの、ゆるやかに終わっていく生の只中にいる。そういう感覚。

これからどれだけ生きていても、わたしのものは増えない。なにをしても積みあがらない。
いまだけが、過去からも未来からも断絶しているような気がする。

わたしの人生には決定的に連続性が欠けている。

もしかするとそれは、こんなふうに、過去の自分を否定してばかりいるからかもしれないけれど。