忘京

 すべてフィクションです。

意味がないことに、意味があるので。

 たとえば、きょう、わたしはふと気が向いて、なにか文章を書いてみる。
 それから何気なくカレンダーに目をやって、きょうが3月11日であることに気がつく。
 きょう、この日に、なにか文章を書くということ。そこには思いがけない意味が、ノイズのように、不可抗力的に、自然発生する。
 キーボードを叩くわたしの膝に、猫がひょいと乗ってくる。きょうという日にどのような意味があるのか、猫はなにも知らず、なでてもいないのにごろごろと喉を鳴らしながら、なんだか気持ちよさそうに目を細めている。いつもどおりの猫が、この日にもいつもどおりであることに、わたしは意味を感じてしまう。

 わたしがなにを書いても、なにをしても、3月11日だからなのかな、と思われるような気がしてしまう。
 ――何月何日は、なにがあった日だから。
 ひとは意味を見いだそうとする生きものだから、つい、そんなふうに考えてしまう。きょうにも、あしたにも、あさってにも、それぞれに違う意味があるような気がする。わたしのあらゆる行動が日付と紐づけられて、そこに意図していない意味を見つけられてしまう気がする。
 日付なんてせいぜい366個しかないくせに、そのひとつひとつに、どんどん意味づけがなされていく。ひとによって定義された概念に、ひとが意味が上乗せしていく。日付だけじゃない。場所にも、物にも、世界中のなにもかもに意味があるように思えてしまう。

 世界はすこしずつ塗りつぶされて、しだいに空白が埋められていく。ぜんぶ、やり尽くされている。新しいものなんて、どこにも残っていない。そんな感覚が胸にわく。
 この世界から、なんでもないものが、減っていく。
 すべてが、なにかになっていく。
 宇宙が意味で満たされていく。

 どうして、すべてに意味がないといけないのか。
 意味のないものでも、きっと必要なはずだった。だって、世界が意味のあるものばかりだったら、きっと疲れてしまうでしょう。
 そんなふうに考えていると、不意に、わたしも「意味がないものが存在する意味」を求めていることに気がつく。どうしても逃れられない。ひとは意味を探してしまう。
 存在する意味。あるいは、存在しない意味。あらゆるものと、そしてあらゆるものの外にさえ、ひとは傲慢にも意味づけをする。わたしは疲れてしまって、意味のないことを書いてみたいな、と思う。そうして意味がない文章を書くことに、いつしか、ひとりでに意味が生じる。

 3月11日に、わたしは文章を書く。きっと、3月11日だからなのかな、と思われてしまう。
 だからわたしは、あえてきょうという日の意味からかけ離れたものを書こうとしてみる。ということを書くのも、結局は、きょうが3月11日だからにほかならない。
 気づけば膝からいなくなっていた猫が、布団で、いびきをたてている。